さみだれダイアリー

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25.7.27 濱口竜介『他なる映画と』

7月27日(日)

さいきん濱口竜介の映画論集『他なる映画と』を読んでいて、これが面白すぎて一ページごとに目を見張っている。

いつかちゃんとした感想を書きたいとは思っているものの、ひとつ言えるとすれば、この本には全体に「言語化してくれる魅力」がつらぬいている。
たとえば映画の記録性、他者性、偶然性、......。映画を観るときにたしかに感じてはいるが言語化できない領域を、濱口はいとも簡単に、それも容易な表現で言語化してみせる。

ちなみに、相米慎二に関する論考では、こんなことを述べている。

「今回、相米映画を言語化不可能とわかっていながら、この文章を書いた理由があるとすれば、決して言語化し得ないあるかなきかの小さきものが『ある』と信じる、これが『映っている』と言うことによってしか、相米の向かう先を擁護し得なかったからだ」(「2」p.30〜31)

相米慎二の作品にある「決して言語化し得ないあるかなきかの小さきもの」を言語化する試みに果敢に挑んでいる。なぜ「言語化不可能とわかっていながら」も言語化するのか。それはやはり、濱口が自身の映像作品においても、言語化できない映画のはらわたのようなものを会得していて、それを映像に(奇跡的に)記録することに成功しているからであろう。映画について言語化不可能な領域を言語化する、そのことによって、映像の奇跡をふたたび起こすことができるかもしれない。

それにしても、映画論を読む時って、本当は登場する作品をすべて鑑賞した状態で読み進めていきたいけれど、それは到底不可能であって......。みんなどうしているんだろう......。