さみだれダイアリー

長い文→ https://samidare-taizen.hatenablog.com/

25.10.11 ロサンゼルス旅行記(2)

9/6〜11 ロサンゼルス旅行記その2

9/6 08:50(太平洋標準時)

約10時間のフライトが終わり、無事にロサンゼルス国際空港に着陸した。

直行便というのは不思議なもので、当たり前なのだが飛行機に乗って着いたらもうアメリカ大陸なのである。G-SHOCKで時差を調整すると針がジィ......っと動いて日本時間から太平洋標準時に変わる。それだけではまだアメリカにいるという実感が湧かない。


空港を歩くと、到着口付近にも、バス乗り場の近くにも、やたらとスタバがある。今回の旅行で感じたことのひとつが、圧倒的なスタバのチェーン展開だった。泊まったホテルのフロントにもスタバがあった。次の日に泊まったホテルのフロントにも、もちろんあった。
朝ごはんは謎のマフィンっぽいやつを買う。アメリカに着いて、初めて店員と英語で話す。ああ自分の英語拙いんだろうなと思いながら、でも開き直って、堂々と、マフィンをオーダーする。そしたら「card or cash?」とめちゃくちゃ早口で聞かれる。かろうじて聞き取れたので「card!!」と、なんかもう、嬉しくてたまらないみたいな感じで叫ぶ。アメリカではこのやりとりが続くのか......と一瞬しょげるけど、大丈夫。


ロサンゼルス空港からはBig Blue Busに乗ってサンタモニカへ。ロサンゼルスの公共交通機関は治安が悪いと聞いていたけど、少なくともこのバスは大丈夫そう。
サンタモニカ。名前は聞いたことがある。でも具体的にどんなスポットがあるのか知らなくて、『地球の歩き方』でリサーチした。ヤシの木。青い空。砂浜。ここがアメリカ、西海岸、と言わんばかりのバカンス要素のオンパレード。実際、この旅でいちばんのアメリカっぽさ、異国情緒を感じたのはサンタモニカだった。


サンタモニカ・ピアからビーチへ降りる。空に雲がない。空に雲がない!!もはやCGだ!!と、ずっと思っていた。昨日の夜まで東京のオフィスで労働していたから、あまりの光景の変わりように心身がついていかない。地球は広いのか狭いのかよくわからなくなってくる。
砂浜でのんびりしていると、謎のビーチグッズを売っているおじさんが近づいてくる。でもビーチにいる誰も、気にかけないし見向きもしない。というか、のんびりと自分の世界に入っている。おじさんも声をかけるでもなく、ビーチグッズを乗せた台車を引きながら、ただただ歩いていく。のんびりするとはなんて素晴らしいことなのだろう、と思う。道端に寝ころがる猫の気持ちがいまなら理解できる。

サンタモニカの少し南にはベニスという地区があって、そこにもビーチがあり、それと運河が綺麗だというので見に行くことにする。


これがベニス運河。『地球の歩き方』によると、たばこで儲けた男が、大好きだったイタリア・ベニスの運河を1905年に再現しようとして、そのとき作られた一部が残っているらしい。なんじゃそりゃ、と思うけど、運河を作る理由なんて水運か趣味のどちらかだろう。
ベニス運河、綺麗なだけではなくて、なんといっても大麻の匂いがすごい。というか、すれ違った若者がナチュラルに大麻を吸っていた。大麻ってこんな匂いなんだ。帰国してしばらく経った今では匂いの輪郭しか思い出せないけど、なんとなく鼻腔を刺激されるあの感じはかすかに残っている。

今日はいったんサンタモニカまでバスで帰って、そのあとハリウッドのホテルへ移動する。
ベニスからサンタモニカまでのバス(これもBig Blue Bus)に乗ると、やんちゃそうな若者の集団が同じバス停で乗ってきた。やんちゃそうだなあ、と思っていると、ラジカセ(⁉︎)を取り出して、大音量でヒップホップを聴き始めた。おいおい、スパイク・リーの映画じゃないんだから、と思っていると運転手にたしなめられてボリュームを下げていた(でも音楽をやめることはしなかったし、不思議と僕も音楽をやめてほしいとは思わなかった)。ロサンゼルス初日、だんだんといろんなことに寛容になっていく。日が落ちる前にホテルへと急ぐ。

25.10.5 ロサンゼルス旅行記(1)

9/6〜11 ロサンゼルス旅行記その1


9/6 22:30(日本時間)
眠れない。とにかく眠れない。成田空港からロサンゼルス空港まで向かう飛行機で幾たびに体勢を変え、まぶたを閉じ、必死に睡魔を呼び起こそうとして格闘している。格闘の末、ついに朝日が昇ってきてしまった。ロサンゼルス空港にあと90分のところまで近づいてしまったのだ。
これはもう眠れない。潔く睡眠をあきらめ、とりあえず苦闘の様子を文章にしたためることにした。

成田を出たのは日本時間の14時35分で、ロサンゼルスには8時50分に着くらしい。時差はマイナス16時間だから、日本時間だと深夜24時に着いて、ロサンゼルスは朝らしい。めっちゃ得、と思う。人生が長くなる。

飛行機の中では村上春樹の『雨天炎天』を読んでいた。読みやすすぎて、もう読み終わりそう。ギリシャの僻地にある寺院とトルコの辺境を巡った貴重な紀行文なのに、こんなに簡単に飲み終えてしまっていいのか、と思うくらいすらすら読めてしまう。
特にトルコとシリアの国境で軍隊に銃を突きつけられたエピソードなど背筋が凍る思いなのだが、なんだかあっさりとしている。タバコ(マルボロ)をあげたらトルコ軍はみんなすんなりと話を聞く、そんな話が書いてあって、緊迫しているのかまったりしているのかわからない。でもトルコに行きたくなったのは間違いなく、GoogleMapsでトルコの辺境のストリートビューを意味なく見ている。そんなこんなしているうちに飛行機が着陸体制に入ったというアナウンスが響く。

今回、ZIPAIRというLCC(低価格の飛行機会社)のチケットが安かったために急遽ロサンゼルス行きを決めたのだけれど、思いのほか飛行機か快適でとても楽しい。リラックスしすぎてアマプラにダウンロードしておいた黒沢清蛇の道』を2回観た。2回目はうとうとしていた。

人生で初めてのアメリカ大陸、そしてロサンゼルス。大麻の匂いとはいかなるものなのか、ハンバーガーショップで出てくるポテトのボリュームはいかなるものなのか、期待を込めて着陸を待つことにする。そして、この経験をいかにして文章にしたためるか、なんてことも頭の片隅で考えつつ、アメリカ西海岸の陽光を浴びたい。いまはただ、着陸を待っている────。

25.9.1 山手線で隣に座ったきみ

きのう(8月31日、日曜日)は久しぶりに大学の同期・後輩とお酒を飲んだ。
4年前までは同じ学生寮で毎日顔を合わせて、毎週のようにお酒を飲み交わしていたというのに、久しぶりの再会を祝うなんて、僕たちらしくない、とずっと思っていた。
けれど、久しぶりの再会から徐々に打ち解けていくまでの会話の運び方、熱の帯び方、これはもう映画のシナリオなのだと、ここはスクリーンの中なのだと、一瞬でも思った。それ以外に再会を祝すにふさわしい感想があるだろうか......。

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土曜日、公開から1年越しに『SUPER HAPPY FOREVER』をやっと劇場で観ることができた。

この映画の舞台は伊豆なんだけど、伊豆ってすごい。こんなに魔力的な場所なんだ、と再認識させられる。
かつてあったもの、居た人の記憶が伊豆の海沿いの温泉街(舞台のホテルは下田らしい)を捉えるカメラから浮かび上がってきて、その記憶と自分自身のパーソナルな記憶、それこそ伊豆に泊まりに行った時の記憶とかが接続される。
海、坂、砂浜、至る所にある記憶の残滓と格闘する主人公・佐野と宮田のやりとりは泥臭いけど身体的に美しい。なんかこの映画、ずっと身体が美しいんだよな......。

佐野と凪が初めて出会ったホテルのロビーから、だんだんと仲を深めていくまでの脚本が素晴らしくて、何度も泣きそうになった。ふとしたせりふ、行為にこそ永遠に替えられるような瞬間があって、それを観客の私(たち)はまざまざと見せつけられていた。ほとんど身動きがとれないくらい、目を離せないほどに。

旧友との再会を分かち合う瞬間にこそ、永遠に替えられるものがあるのではないか、すなわち、それこそ映画たりうる瞬間なのではないか、と『SUPER HAPPY FOREVER』を観てセンチメンタルになった私は、ひとりでに、思っていた。

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飲み会の帰りの山手線、隣に座った酔っている若い男から「お兄さん、何の帰りですか!?」と声をかけられた。 

私もある程度は酔っていたのでいろいろと話をしてしまううちに、彼が大学4年生で、就職先が決まっていないこと、東京は人が多くて実家に帰りたいことなどを聞いた。ほんとうにそう思った。東京は人が多い。そして就職先なんて決まっていなくたっていい。

彼は新宿で降りるらしく、私の方が先に降りて、帰り際に軽く手を合わせて、彼の無事を──そして私の無事を──祈った。

25.8.9 またもやページをめくる-村上春樹『遠い太鼓』その2-

8月9日(土)

日記を書くには、日記を書こうと思うに値するくらいの出来事がないと──そういった出来事の有る無しにかかわらずつけてこそ日記なのだけど──なかなか筆が進まない。

月曜から金曜までは当然、書くべき出来事などない。朝起きて、電車に乗って、会社に着いて、会社を出て、電車に乗って、家に帰って寝る。その合間に本を読む、スマホをいじる、スマホをいじる、本を読む。

だから書くことといえば最近読んでいる本のことばかりになる。
前にも書いたとおり村上春樹『遠い太鼓』をちびちびと読み進めていて、だいたい5分の3くらいまで読み進めた(それでも全550ページ強あるから、あと220ページほど残っている。分厚い文庫本である)。
 『遠い太鼓』は1986〜1989年までの旅行記である。約40年前の村上春樹と、ギリシア・イタリアの情景......。当たり前だが、これらの文章が書かれてから40年も経っている。しかし、先月の『新潮』に載っていた文章です、新作のエッセイです、と言われても信じられるくらい、みずみずしい感じがする。

たしかに文化や風俗は当時と今とでは大きく変化しているのかもしれないが、文化や風俗についての描写は──旅行記なのに──ほとんどない。そのかわり、土地の雰囲気、市井の人々とのおもしろおかしいやり取りなんかが細かく描写されていて、そこには時代を超えた普遍性に目を向ける村上春樹の姿勢があるというか、言ってしまえば変なところに注目しているなあという感じでとても興味深い。

そして、旅行とは、その土地に、その時代に、記憶を留めて置いておくことである、といつも思う。そしてまた、何かしらの文章を書くということも同様に、記憶を留め置く行為である。むしろ、記憶を留め置くために文章を(何かしらの心情のあらわれとして)形にせずにはいられないのだ。

村上は、1987年の冬からローマとロンドンに滞在して『ダンス・ダンス・ダンス』を書き上げている。なかでもローマで借りた家はとても寒く、「最悪の時期だった」し「冬に起こった良い事は、小説が完成したことだけだった」という。そして、『ダンス・ダンス・ダンス』を執筆していた冬について、こう書いている。

だから僕は『ダンス・ダンス・ダンス』という小説のことを思うたびに、ローマのあのマローネさんの寒い家のことを思い出す。そして、そうだそうだ家の中でオーバーコートを着てこの小説を書いたんだなあと思う。猫のジンと犬のマドーとポンテ・ミルヴィオの市場とポリーニのコンサートを思い出す。(p.385)

文章を書く事は記憶を留め置くということ、そして、いつでも、どこからでも、その記憶にアクセスできるようにしておくということ。いま実家への帰省のために新幹線の12号車7B席でしたためているこの文章も、いつかどこかでひもとかれるかもしれない。

25.8.2 ページをめくる手-村上春樹『遠い太鼓』-

8月2日(土)

さいきん残業が多くて困っている。具体的には、担当している書物の入稿時期が迫っていて、その作業に追われている。
大体、1日で2、3時間くらい残業しているのだが、これでも世間から見れば普通、あるいは、残業が少ない方に分類されるのだろうか。ただ出勤時間はフレックスなのでとても助かっている。朝のフレックスが無かったら、さっさと仕事を辞めて小さな図書館で蔵書整理のアルバイトでもしているところだった。

残業時間が多いからといって特段に困ることもないのだけれど、いちばん困るのは読書に時間を費やせない、というところだと思う。
なので、さいきんは村上春樹の『遠い太鼓』をちびちびと読み進めている。
元々はフォークナー『八月の光』を読んでいたのだけれど、ただでさえ文脈や時系列が分かりにくいのに、毎日こま切れで読み進めるのは、正直言って苦痛というほどではないが、そこに読書の快楽はなかった。

『遠い太鼓』は村上春樹が1986〜89年までギリシア・イタリアを中心としたヨーロッパに滞在していた頃の旅行記である。旅行記である、といっても、村上春樹がいかに書くことに苦悩していたか、そして、いかに書くことに支えられていたか、という彷徨の記録である(文章自体はけっこう気楽ではあるけど)。

本書の冒頭、「はじめに」には印象的な一節があった。

 様々に移り変わっていく情景の中で自分をなんとか相対化しつづけること。もちろん簡単な作業ではない。うまくいくこともあるし、うまくいかないこともある。でもいちばん大事なことは、文章を書くという作業を自らの存在の水準器として使用することであり、使用しつづけることである。(p.22-23、原典では「しつづける」に傍点)

いまこうして文章を綴っていること、そして、それを続けていくこと。日常のなかで(あるいは資本主義社会のなかで、と言ってしまってもよい)、足あとを残し続けること。しばらくは『遠い太鼓』を毎日数十ページずつめくりつつ、遠い40年前のギリシアと2025年の東京都北区との間で意識を往還させてみたい。

25.7.27 濱口竜介『他なる映画と』

7月27日(日)

さいきん濱口竜介の映画論集『他なる映画と』を読んでいて、これが面白すぎて一ページごとに目を見張っている。

いつかちゃんとした感想を書きたいとは思っているものの、ひとつ言えるとすれば、この本には全体に「言語化してくれる魅力」がつらぬいている。
たとえば映画の記録性、他者性、偶然性、......。映画を観るときにたしかに感じてはいるが言語化できない領域を、濱口はいとも簡単に、それも容易な表現で言語化してみせる。

ちなみに、相米慎二に関する論考では、こんなことを述べている。

「今回、相米映画を言語化不可能とわかっていながら、この文章を書いた理由があるとすれば、決して言語化し得ないあるかなきかの小さきものが『ある』と信じる、これが『映っている』と言うことによってしか、相米の向かう先を擁護し得なかったからだ」(「2」p.30〜31)

相米慎二の作品にある「決して言語化し得ないあるかなきかの小さきもの」を言語化する試みに果敢に挑んでいる。なぜ「言語化不可能とわかっていながら」も言語化するのか。それはやはり、濱口が自身の映像作品においても、言語化できない映画のはらわたのようなものを会得していて、それを映像に(奇跡的に)記録することに成功しているからであろう。映画について言語化不可能な領域を言語化する、そのことによって、映像の奇跡をふたたび起こすことができるかもしれない。

それにしても、映画論を読む時って、本当は登場する作品をすべて鑑賞した状態で読み進めていきたいけれど、それは到底不可能であって......。みんなどうしているんだろう......。

25.7.24 さみだれのダイアリー

7月24日(木)

このまえ、会社の書棚に置いてある『文藝』春季号で「日記」が特集されているのを読んだ。
と、書けば、なぜいま私がこの日記を書いているのか、それも、重い腰を上げて、労働の隙間を縫って、いよいよ書きはじめようとしているのか、という答えになる。

実はその『文藝』でなにを読んだか、というのはあまり思い出せない。手元にもないので、振り返ることもできない。ただ、滝口悠生の論考「日付を書けばいい」には、いたく感銘を受けた記憶がある(であるから、いまこうして日記をつけている)。けれど、その内容はあまりよく思い出せない。

しかしながら、日記というものは、なべてそういうものなのではないか、とも思えてくる。何を書いたか、よりも、いつ、どこで、何を思いながら書いていたか。つまり、いまこうしてつけられる一日目の日記なんてものは、その内容の如何ではなく、その日記をつけている私がそのとき何を思っていたか、後からページをめくったとき、それがテクストから浮かび上がってくればよいのだ。(そのようなことを滝口悠生も上の『文藝』で書いていたような気がする。だとすれば私はただの受け売りである。)

さみだれ」を辞書でひくと「断続的にいつまでもだらだらと続くことのたとえ」とある。まさにさみだれのように、だらだらと、書くことに執着したい。書くことは小宇宙である、と、何かをものするたびに感じる。いまは小宇宙の入り口にやっと辿り着いたところである。